野球雲が選んだ日本を変えた100人。明治時代から平成までの約150年の野球史に影響を与えた人物を選びました。異論反論もありますでしょうが、忘れられた野球人を顕彰、語ることの面白さを楽しめるように編集。
「野茂英雄が挫折して帰ってきたら、今日はなかった」
近鉄バッファローズからL.A.ドジャースへ。
1995年5月2日。
日本の野球がメジャーの扉を開いた瞬間だった。
アメリカから輸入されておよそ1世紀半。
日本の野球は、いかにして今日のようなカタチになったのか。
ナショナルパスタイムといわれるまでになったのか。
明治の世から平成まで、その永い道のりには、
野球に関わって来た実に膨大な先人たちの存在がある。
今回の『野球雲』は、野球史を彩った人物にフォーカス。
昔日の野球人たちはもちろん、野球の愉しさを球場の外へと広げてくれた文化人まで、
執筆者・読者の皆さんと一緒に、
敬愛をこめて、日本野球の100人を選定、その功績を考察してみました。
言い換えれば「野球雲殿堂2017」
やっぱり、野球は奥深い。
やっぱり、野球を語り合うのは面白い。
野球の「今」をつくった前人たち
●村上雅則は、わずかな好機を逃すことなく大リーグの一員として2年を過ごし、「日本と大リーグとの差、それは肩と手首。すべての選手が三拍子そろっている」と実際の経験に基づく重要な知見を日本の球界に持ち帰った。
●1927年の東京六大学春季リーグ開幕戦で、宮武三郎は1年生投手として完封勝ち、本塁打も打った。(W・ジョンソンのような)サイドスローから投げる速球に、他の五大学はきりきり舞いした。
●戦前、戦後とプロ野球創設と復活のために、日本とアメリカと交渉の旅をし続けてた鈴木惣太郎は、名実ともに「日本野球の父」と言えるだろう。
●蔦文也とやまびこ打線、1982年の夏の選手権。決勝戦で高校野球のお手本のような名門・広島商業を圧倒的な強打で粉砕。その試合は今でも「高校野球の歴史が変わった試合」として語り草になっている。
●水島新司は、漫画で日本球界を変えた人。特に『あぶさん』に代表されるようにパ・リーグを大きく取り上げた事で、その後のパ・リーグの発展に大きく貢献した。
●「55本塁打」の更新の難しさは、1985年に54本塁打を残したランディ・バース、55本塁打を放った2001年のタフィ・ローズと2002年のアレックス・カブレラへの有形無形の反発からも明らかだ。
●渡邉恒雄が暴れてくれたから、球団、選手、ファンは結束できて、球界が正しく存続出来た、と言える。逆の意味で日本の野球を変えた人。
(特集より)